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相撲の歴史を徹底解説!神話から江戸の勧進相撲、2026年の大相撲まで

日比野 航 日比野 航 • 更新: • 公開: • 読了約 20 分
目次

相撲の歴史は、単に力士が土俵で勝敗を競う競技の歴史ではない。『古事記』『日本書紀』に記された神々の力くらべ、奈良・平安時代の宮廷儀礼、鎌倉・戦国時代の武士の鍛錬、江戸時代の勧進相撲を経て、現在の大相撲へと受け継がれてきた、日本の文化史そのものだ。

2026年現在も、大相撲では土俵入り、番付、化粧まわし、行司の装束など、江戸時代から続く伝統的な様式を目にできる。一方、興行の会場や観戦環境は時代に合わせて変化している。日本相撲協会の公式歴史解説や国立国会図書館の展示解説を手がかりに、相撲の起源から現代までを時系列で整理し、神事から庶民の娯楽、そして日本を代表する伝統文化へと発展した理由を読み解く。

【相撲の起源】『古事記』『日本書紀』に描かれた神々の力くらべ

相撲の歴史

相撲はいつ始まったのか。この問いに対して、特定の年を歴史的な起源として断定することは難しい。人間同士が組み合い、相手を倒そうとする力くらべは古くから存在したと考えられ、日本の相撲の源流を知る手がかりとして、8世紀に編纂された歴史書や神話が重視されている。

『古事記』の国譲り神話と力くらべ

712年に成立した『古事記』には、国譲り神話の一場面として、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)が力を競う物語が記されている。神々の争いを力くらべによって決着させるこの伝承は、相撲の原型を考えるうえで重要な物語の一つだ。

ただし、これは神話であり、当時すでに現在と同じルールや土俵を備えた競技が行われていたことを証明する記録ではない。神話に描かれた力くらべと、後世の相撲興行を区別して読むことが、歴史を正しく理解する第一歩となる。

『日本書紀』の野見宿禰と当麻蹴速

720年に成立した『日本書紀』には、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が天皇の御前で力を競ったという伝承が登場する。垂仁天皇の時代の出来事として語られ、古代の相撲を象徴する物語として広く知られている。

この伝承では、当麻蹴速が力自慢として名を知られ、野見宿禰が対戦相手として召し出されたとされる。両者の勝負は、後世において天覧相撲の起源を語る物語として位置づけられてきた。野見宿禰は相撲の祖神としても知られ、現在に至るまで相撲文化を語る際に欠かせない存在となっている。

もっとも、『日本書紀』に記された対戦を、現代のスポーツとしての相撲が始まった確定的な日時とみなすことはできない。重要なのは、古代の人々が力くらべを王権や儀礼と結びつけて理解していたことだ。

農耕儀礼としての相撲

古代の相撲には、勝敗を競う娯楽だけでなく、五穀豊穣や収穫の吉凶を占う祭祀的な側面があったとされる。農耕を基盤とする社会では、自然の恵みや共同体の繁栄を祈る儀礼が重要だった。人間の力を競う行為も、神々に奉納する儀式や年中行事の一部として受け入れられていった。

こうした背景が、相撲を単なる格闘競技とは異なる文化へと発展させた。勝敗を決める実力主義と、神事としての厳粛な所作。その二つの性格が共存している点は、現代の大相撲にも通じる特徴だ。

【相撲の歴史年表】神事から大相撲へ、重要な出来事を時系列で整理

相撲の歴史を理解するには、神話・宮廷儀礼・武家社会・職業興行という大きな流れを押さえるとわかりやすい。日本相撲協会の歴史解説、笹川スポーツ財団のスポーツ辞典、国立国会図書館の展示解説などをもとに、主な節目を整理した。

時代・年 主な出来事 相撲史における意味
古代の伝承 神々の力くらべ、野見宿禰と当麻蹴速の対戦 相撲の起源を語る神話・伝承として受け継がれる。
712年・720年 『古事記』『日本書紀』の成立 古代の力くらべに関する伝承が文献に記録される。
734年 聖武天皇が相撲を観覧 宮廷行事としての相撲の発展を示す節目。
793年 桓武天皇の時代に相撲の天覧が行われる 宮廷における相撲の年中行事化が進む。
1174年 相撲節会の最後の開催とされる 長く続いた宮廷儀礼としての相撲が終息へ向かう。
1570年前後 織田信長が上覧相撲を催す 戦国武将による相撲の保護・奨励が知られる。
1684年 江戸の深川八幡宮で勧進相撲が許可される 江戸における職業的な相撲興行の発展を促す。
1757年 1枚にまとめた番付が登場 力士の序列を一覧で伝える仕組みが発達する。
1789年・1791年 谷風・小野川への横綱免許、江戸城での上覧相撲 横綱の儀式と大相撲人気の発展に関わる重要な時期。
1833年 江戸の回向院が定場所となる 定期的な興行の仕組みが整い、大相撲の基盤が固まる。
1909年 両国に国技館が開館 常設の相撲興行施設が整い、「国技」の呼称が広まる。
2026年 年間6場所の本場所を開催 伝統的な興行制度を継承しつつ、新しい会場も活用する。

年表からわかるのは、相撲が一度に完成したのではなく、社会の変化に合わせて役割を変えてきたということだ。古代には祭祀や宮廷儀礼と結びつき、中世には武士の鍛錬として行われ、江戸時代には専門の力士による興行へと発展した。

なお、古代の出来事については、神話に登場する時代と文献が成立した時代を混同しないことが大切だ。712年と720年は、それぞれの書物が成立した年であり、相撲そのものがその年に始まったことを意味するわけではない。

【武士の鍛錬から庶民の娯楽へ】鎌倉・戦国時代と江戸の勧進相撲

鎌倉時代・戦国時代は武士の実践的な鍛錬

武士が政治や軍事の中心を担うようになると、相撲は身体能力を鍛える手段としても重視された。相手の体勢を崩す力、瞬時に動く判断力、組み合った状態で踏ん張る力は、武士に求められる身体能力と親和性が高かった。

鎌倉時代には源頼朝が相撲を観覧した記録が伝えられ、室町時代から戦国時代にかけても、武家社会の中で相撲が行われた。宮廷での儀礼とは異なり、武士の鍛錬や主君への披露という目的が前面に出るようになったのである。

織田信長の上覧相撲が示す相撲人気

戦国時代の相撲を語るうえで欠かせない人物が織田信長だ。日本相撲協会の歴史解説によると、信長は元亀・天正年間(1570~1592年)に、近江や安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催したとされる。勝ち抜いた力士を家臣として召し抱えたことも伝えられている。

上覧相撲とは、君主や権力者が相撲を観覧する行事のことだ。信長が相撲を好んだという伝承は、相撲が武士の鍛錬だけでなく、権力者の関心を集める見世物としても価値を持っていたことを示している。

ただし、信長の上覧相撲と、江戸時代に成立した職業的な大相撲は同一ではない。前者は武家社会の催しであり、後者は力士集団、興行主、観客、番付などが組み合わさった継続的な興行制度だった。

江戸時代の勧進相撲が大相撲の原型をつくった

江戸時代に入ると、相撲は庶民が観戦する興行として大きく発展する。その中心となったのが「勧進相撲」だ。勧進とは、本来、寺社の建立や修繕などに必要な資金を集めることを指す。相撲を興行し、観客から集めた収入を寺社の事業に充てる仕組みが広がっていった。

国立国会図書館の展示解説によると、江戸では貞享元年(1684年)に深川八幡宮で勧進相撲が許可された。その後、江戸の興行は発展し、寛政年間(1789~1801年)以降には回向院で開催されることが増え、天保4年(1833年)には回向院が定場所となった。

定場所とは、定期的に興行を行う会場のことだ。会場と開催時期が安定すると、力士の育成や序列の管理、興行の運営が進めやすくなる。相撲は単発の見世物から、継続的な職業興行へと姿を変えていった。

江戸時代中期から後期にかけては、谷風、小野川、雷電などの強豪力士が人気を集め、相撲は歌舞伎などと並ぶ庶民の娯楽となった。錦絵に力士や興行風景が描かれたことも、相撲人気の広がりを物語っている。

現在の大相撲につながる重要な点は、この時代に競技だけでなく、興行を支える制度や、力士を評価する序列、観客に見せる儀式が整っていったことだ。江戸時代は、相撲の歴史における大きな転換期だった。

【近代大相撲の成立】国技館・横綱・番付はどう発展したのか

1909年の国技館開館と「国技」の定着

明治時代に入ると、相撲は近代社会の中で興行制度を整えながら存続した。大きな節目となったのが、1909年(明治42年)の両国国技館の開館だ。屋外の仮設的な興行場を中心としていた相撲に、常設の大規模施設が加わったことで、観戦の環境と興行の基盤が変化した。

「国技」という呼び名も、この時期に広く定着した。国立国会図書館のレファレンス資料や国語辞典の解説では、国技館の開館に際して相撲を日本の国技とする考え方が示され、その施設名が相撲と国技という言葉を強く結びつけた経緯が紹介されている。

ただし、相撲が国技と呼ばれることと、法律で正式に国技として指定されていることは別の話だ。2011年の政府答弁書では、政府として国技の認定基準や考え方を定めていないとされた。相撲は日本を代表する伝統文化として広く「国技」と呼ばれているが、特定の法令によって国技に指定された競技という意味ではない。

横綱はどのように生まれたのか

横綱は、大相撲における最高位として知られている。しかし、その制度は最初から現在と同じ形だったわけではない。

江戸時代の寛政元年(1789年)には、谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱免許が与えられた。これは横綱の歴史を語るうえで重要な出来事である。当時の横綱は、現在の番付上の最高位と完全に同じ制度ではなく、免許や儀式に結びついた性格を持っていた。

その後、相撲の制度が整うにつれて横綱の位置づけも変化し、現在では大相撲の最高位として確立されている。横綱には強さだけでなく、土俵上での所作や品格も期待される。これは、相撲が競技と儀式の両面を持つ文化であることを象徴している。

歴代横綱の中では、江戸時代の谷風や小野川、昭和の大鵬や北の湖、千代の富士、平成以降の貴乃花、白鵬などが、それぞれの時代を代表する存在として知られる。横綱の歴史をたどることは、相撲の競技水準だけでなく、人気や社会的な評価がどのように変化してきたかを知る手がかりにもなる。

番付は力士の序列を可視化する仕組み

大相撲の番付は、力士の地位を東西に分けて示す独特の一覧表だ。江戸時代には力士の序列を示す番付が発達し、宝暦7年(1757年)には1枚にまとめた番付が登場したと、日本相撲協会の相撲博物館展示解説で紹介されている。

番付は、単なる名簿ではない。力士がどの地位にいるのかを示し、興行における取組編成や観客の関心にも関わる。成績を重ねて昇進を目指す力士にとっても、番付は努力の結果が可視化される重要な指標だ。

ただし、番付の昇降は、単純に勝ち星の数だけで機械的に決まるわけではない。地位や対戦相手、場所ごとの成績などを踏まえて番付が編成される。番付を読む際には、力士の名前だけでなく、東西や地位の違いにも注目すると、大相撲をより深く楽しめる。

【伝統はなぜ残った?】土俵入り・化粧まわし・行司の意味

大相撲の魅力は、取組の勝敗だけではない。力士が土俵に上がる前後の儀式、行司の装束、呼出しの所作、番付表の独特な書体など、競技を取り巻くさまざまな要素が一体となって、相撲ならではの世界を形づくっている。

土俵入りは神事の面影を残す儀式

土俵入りは、力士が化粧まわしを着けて土俵に上がり、所定の所作を行う儀式だ。幕内力士や十両力士が東西に分かれて登場する土俵入りと、横綱が一人で行う横綱土俵入りがある。

国語辞典や相撲史の解説では、土俵入りには神に祈り、邪気を払い、相撲を行う場を清めるという意味があったと説明されている。現在では観客に力士を紹介する役割も担うが、単なる入場演出ではない。古代から受け継がれてきた祭祀的な考え方を、儀式として表現している。

横綱土俵入りには「雲龍型」と「不知火型」の二つの型がある。横綱が四股を踏み、柏手を打ち、せり上がる所作には、勝負の前に場を整える意味合いが重ねられてきた。こうした様式が江戸時代以降に発展し、現在の大相撲に受け継がれている。

土俵と番付が大相撲の形式を整えた

土俵も、相撲の長い歴史の中で形づくられてきた。江戸時代前期には土俵が整備され、取組を行う場所と観客が見守る空間が明確になった。競技の場が一定の形式を持つことで、勝敗の判定や興行の進行を統一しやすくなった。

番付、化粧まわし、髷、行司の装束なども、長い時間をかけて様式化されてきた。これらはすべてが古代から同じ姿で続いているわけではない。むしろ、江戸時代を中心に制度や意匠が整えられ、その後も必要に応じて変化しながら継承されてきたものだ。

つまり、伝統とは、何も変えずに保存することだけを意味しない。相撲の歴史を見ると、時代ごとの工夫が積み重なり、現在の様式が成立していることがわかる。

相撲が「国技」と呼ばれる理由

相撲が国技と呼ばれる背景には、古代の神話や宮廷儀礼にまでさかのぼる歴史、江戸時代に発達した職業興行、明治時代の国技館開館、そして全国的な人気がある。

一方で、国技という言葉を法律上の指定と混同してはいけない。政府が特定の競技を国技と認定する制度を設けているわけではないため、相撲は法令で指定された国技というよりも、日本の伝統を代表する競技として社会的に「国技」と呼ばれていると理解するのが適切だ。

相撲が今日まで受け継がれてきた理由は、歴史が長いことだけではない。勝敗が短い時間で決まる競技としてのわかりやすさと、儀式や作法を通して歴史を体感できる文化としての奥深さを兼ね備えていることが、相撲の魅力を支えている。

【2026年の相撲】伝統を守りながら変わる大相撲の現在

2026年の大相撲も、江戸時代に発達した興行の仕組みを土台として開催されている。日本相撲協会が公表する年間日程では、1月・3月・5月・7月・9月・11月の年6回、本場所が組まれている。

2026年の本場所は、1月と5月、9月が両国国技館、3月がエディオンアリーナ大阪、7月がIGアリーナ、11月が福岡国際センターで開催される日程だ。特に名古屋場所は、2025年から新設のIGアリーナを会場とする形に変わった。2026年の七月場所も同会場で開催され、興行の伝統を保ちながら観戦施設が新しくなる流れを示している。

2026年10月25日時点で、日本相撲協会の年間日程では、11月場所の番付発表は10月26日、初日は11月8日、千秋楽は11月22日とされている。11月場所を前に番付が公表される時期は、力士の昇進や対戦の行方に関心が集まる節目でもある。

変化する観戦環境と変わらない土俵の伝統

大相撲は、会場や情報発信の方法が変化しても、土俵入り、番付、行司、呼出しといった独自の様式を維持している。新しい会場の導入は、伝統を手放すことと同義ではない。多くの観客が競技を観戦できる環境を整えることも、興行を次の世代へつなぐための取り組みの一つだ。

また、現代の大相撲を理解するには、取組の勝敗だけでなく、力士の地位、昇進制度、儀式の意味、興行の歴史を合わせて見ることが大切だ。たとえば、横綱の土俵入りを見れば神事の名残を感じられ、番付を読めば江戸時代から発展してきた力士の序列制度に触れられる。

相撲は、古い形をそのまま保存してきた文化ではなく、長い歴史の中で変化を重ねてきた文化である。2026年の大相撲にも、神話、宮廷儀礼、武家社会、江戸の興行という異なる時代の記憶が折り重なっている。

【相撲の歴史】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:相撲の起源はいつですか?
A1:相撲の起源を特定の年に定めることはできません。『古事記』や『日本書紀』には神々の力くらべや野見宿禰と当麻蹴速の対戦が記されており、これらが相撲の起源を語る代表的な伝承として知られています。

Q2:相撲は神事とスポーツのどちらが先ですか?
A2:古代の相撲には、力くらべや取っ組み合いといった行為に加え、豊作を願う祭祀や収穫を占う儀礼としての側面がありました。後世には宮廷儀礼、武士の鍛錬、職業興行へと発展し、現在は競技と伝統文化の両面を持っています。

Q3:相撲節会とは何ですか?
A3:相撲節会(すまいのせちえ)は、奈良・平安時代の宮廷で行われた相撲の儀礼的な行事です。諸国から集められた力士が相撲を取り、天皇が観覧する行事として発展しました。宮廷儀礼としての相撲を理解するうえで重要な存在です。

Q4:勧進相撲とは何ですか?
A4:寺社の建立や修繕などの資金を集める目的で行われた相撲興行です。江戸時代に発展し、職業力士や興行制度、番付などが整う過程で、現代の大相撲の原型が形成されました。

Q5:相撲は法律で定められた日本の国技ですか?
A5:相撲は一般に日本の国技と呼ばれていますが、特定の法令で国技として指定されているわけではありません。1909年の国技館開館などを背景に、相撲を日本の代表的な伝統文化とする呼び方が広く定着しました。

Q6:土俵入りや番付はいつからあるのですか?
A6:現在につながる土俵や番付の形式は、主に江戸時代に整えられました。土俵は江戸時代前期に整備され、1757年には1枚にまとめた番付が登場しています。横綱土俵入りも江戸時代に発展し、後世に儀式として定着しました。

Q7:2026年の大相撲は年間何場所ありますか?
A7:2026年の本場所は年間6場所です。1月・5月・9月は両国国技館、3月は大阪、7月は名古屋のIGアリーナ、11月は福岡で開催される日程となっています。

相撲の歴史は、神話に描かれた力くらべから始まり、奈良・平安時代の相撲節会、鎌倉・戦国時代の武士の鍛錬、江戸時代の勧進相撲、そして近代以降の大相撲へと続いてきた。時代ごとに役割や制度を変えながら、相撲は競技と儀式、娯楽と伝統文化を併せ持つ存在へと発展した。

相撲の歴史を理解するうえで押さえたいのは、神話の伝承と史実を区別すること、江戸時代に現在の大相撲の基盤が整ったこと、そして「国技」という呼称が法律上の指定とは異なることだ。この三つを理解すれば、相撲の起源や横綱の意味、土俵入りや番付が受け継がれてきた理由を、より正確に捉えられる。

2026年の大相撲でも、力士たちは土俵上で勝敗を競い、番付を通じて地位を争う。その一方で、土俵入りや行司の所作には、長い時間をかけて受け継がれてきた文化が息づいている。歴史を知ったうえで取組を観戦すれば、勝敗の先にある相撲の奥深さも見えてくるはずだ。

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試合記録はリーグ公式データ、コメントは会見の逐語録から引用。移籍情報はクラブ発表を待って記載します。

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